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最高裁判所第三小法廷 昭和56年(行ツ)93号 判決

大阪府富田林市大字新堂二一七六番地

上告人

ミキ観光株式会社

右代表者代表取締役

三戸紀昭

右訴訟代理人弁護士

八代紀彦

佐伯照道

西垣立也

辰野久夫

藤井勲

大阪府富田林市若松町西二丁目一六九七番地の一

被上告人

富田林税務署長

中野榮丸

右指定代理人

山田雅夫

右当事者間の大阪高等裁判所昭和五四年(行コ)第四六号法人税更正処分取消請求事件について、同裁判所が昭和五六年二月五日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人八代紀彦、同佐伯照道、同西垣立也、同辰野久夫、同藤井勲の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 伊藤正己 裁判官 環昌一 裁判官 横井大三 裁判官 寺田治郎)

(昭和五六年(行ツ)第九三号 上告人 ミキ観光株式会社)

上告代理人八代紀彦、同佐伯照道、同西垣立也、同辰野久夫、同藤井勲の上告理由

原判決には、以下に述べるとおり、その事実認定において、経験則に違背する違法があり、この違法は結論に影響を及ぼすことが明らかであるから破毀を免れない。

第一、本件土地譲渡経理の時期について

原判決は、上告人が本件土地をピーエル農場に確定的に譲渡したのは、上告人の営業年度末である昭和四五年三月三一日であると認定している(原判決が引用する第一審判決一九枚目表四行目ないし五行目)が、この事実認定には、次に述べるように経験則違背の違法がある。なお、以下においては、原判決が引用する第一審判決をも含めて、単に「原判決」ということにする。

一、本件土地譲渡の時期に関係する事実として、次のものを挙げることができる。

(一) 上告人の元張(乙第四号証)の昭和四五年一月分の記帳の頭書に一月一〇日付で本件土地を売却した旨が行間に記載されており、これは経理担当者植村恒吉が同年三月下旬になってから書き加えたものであること。

(二) ピーエル農場の元帳(乙第五号証)の昭和四五年一月分の記帳の末尾に一月一〇日付で上告人に対する土地代金債務が未払金として行間に記載されており、これは前記植村が同年三月下旬になってから書き加えたものであること。

(三) ピーエル農場の昭和四五年一月三一日付伝票(甲第四号証の一)の番号〇〇七七に枝番一が付され、同じく枝番二として上告人からの本件土地の買受を内容とする同月一〇日付の伝票(甲第四号証の二)が綴られていること。

(四) ピーエル農場の昭和四五年三月一九日付番号二一三の伝票(甲第五号証の一)の次の番号二一四で本件土地の代金を手形で上告人に支払ったことを内容とする伝票(甲第五号証の二)が作成されており、それより後の伝票も日付順に伝票番号が連続していること(甲第五号証の三ないし六)。

(五) ピーエル農場が本件土地代金支払のために上告人あてに振出した約束手形のうち支払期日が昭和四五年三月三一日である約束手形(甲第一〇号証)には、振出日として同月一九日、取立のための銀行の裏書日として同月二六日の記載があること。

二、原判決は、一に挙げた事実をもとにしながら、本件土地を確定的に譲渡した日は昭和四五年三月三一日であると認定しているのであるが、その理由とするところは、次のとおりである。

(一) 本件土地譲渡の経理処理が同年三月三〇日までにされたものであったとしても、上告人の営業年度末である同年三月三一日までの間であればいつでも経理担当者の植村恒吉だけの考えにより改めることができるものであったこと。

(二) 甲第五号証の一ないし六の各伝票番号が一連番号となっているけれども、これらの伝票は植村恒吉が任意に作成しうるものであり、同人は乙第四、五号証に内容虚偽の記帳をしているから、一連番号になっていることから直ちに甲第五号証の二の日付が正確なものであると結論することはできないこと。

(三) 甲第一〇号証の約束手形の上告人から株式会社三和銀行に対する裏書の日付が昭和四五年三月二六日と記載されているが、植村証人の証言に照らすと、このことから直ちに右日付の日に右手形が上告人から前記銀行に裏書交付されたものと結論することは相当でないこと。なお、原判決は、甲第一〇号証について、これを振替出金票と題する約束手形であるとしているが、これは明らかな誤りである。甲第一〇号証の約束手形は、支払済のもので支払場所銀行たる株式会社三和銀行富田林支店に他の書類(多くは手形)と一緒に綴って保管されており、同支店がこれをコピーした際にその綴りの次の書類が一緒にコピーされ、その書類に「振替出金票」との標題が付されていたにすぎないのである。

三、しかし、原判決の右認定は、次に述べるとおり経験則に違背している。

(一) 甲第五号証の二の伝票が、原判決の認定どおり昭和四五年三月三一日に作成されたとすれば、植村は、昭和四五年三月一九日付の他の伝票に枝番一を付し、本件土地譲渡に関する伝票を枝番二として作成したはずである。なぜなら、植村は、本件土地譲渡日が昭和四五年一月一〇日であるとの外観を作出するにあたって、乙第四、五号証の元帳の行間にその日付の書込みをし、しかも昭和四五年一月三一日付伝票である甲第四号証の一に枝番一を付し、右年月日より前の日である昭和四五年一月一〇日付伝票(甲第四号証の二)を枝番二とするといった、きわめて簡単に露見する手段を用いており、このことを考えると、甲第五号証の二についてだけ、伝票番号が一連となるようにあとで書替えたとは考えられない。書替えたのであれば、乙第四、五号証についても、甲第四号証の二についても、全て書替えたはずである。このようにみるのが、経験則に合致する。

(二) 甲第一〇号証の約束手形は、支払期日である昭和四五年三月三一日に決済されている。原判決の認定するように昭和四五年三月三一日に本件土地の譲渡がなされたものとすれば、甲第一〇号証の約束手形は、同日中に作成され取立に廻され決済されたことになるが、このようなことがなされたとみることは、経験則に反する。このような場合には、現金または小切手で支払をなせば足るのであって、わざわざ約束手形によるなど考えられない。

(三) 原判決は、植村恒吉は何をするかわからない経理担当者であって、全てを疑いの目で見るべきであり、本件土地譲渡の時期について、それ以後の日ではありえないというぎりぎり最後の日である昭和四五年三月三一日と認定したものと思われる。

しかし、原判決のこの考え方は、うがちすぎである。植村は、本件土地譲渡の日を昭和四五年一月一〇日とするために、前述のように、これ以上ありえないというきわめて簡単な方法―見方を変えれば、きわめてずさんな方法を用いており、このことは、植村が後にこの件について綿密な調査がなされることなど予想だにしていなかったことを如実に物語っている。植村には、甲第五号証の二、甲第一〇号証について後日のために工作する気などさらさらなかったのであり、甲第五号証の二の伝票は、その作成日付たる昭和四五年三月一九日に作成され、甲第一〇号証の約束手形は、その振出日である昭和四五年三月一九日に振出され、同年三月二六日に裏書された。とみるのが経験則に合致する。

(四) 原判決は、二(一)のとおり、本件土地譲渡の日を昭和四五年三月三一日と認定するにあたって、上告人の営業年度末までは、植村が自由に改めることができたということをも挙げている。

しかし、仮に植村がそのような立場にあったとしても、ここでの事実認定の対象は、具体的に本件土地が譲渡されたのはいつかということであり、右の点は右時期の認定にあたって資料となしうるものではない。この点においても、原判決の事実認定は経験則に違背している。

四、以上に述べたとおり、本件土地譲渡の時期に関する原判決の事実認定は、経験則に違背しており、この時期は、三月一九日と認定されるべきである。

第二、本件土地の時価について

一、原判決は、本件土地の時価の形成については、すべて第一審判決の事実認定を採用した。

右認定によれば、昭和四四年一二月から翌昭和四五年一、二月にかけて、奥瀬市長ら上野市側担当者には徐々に一律坪当り二、五〇〇円ないし、三、〇〇〇円程度でなければ全土地の一括買収はできないとの心証が形成され、この額は正式に発表されてはいなかったものの、関係者の間に広まって行き、同年二月頃上野市の中森部長は近鉄の山本部長に対し、どうしても坪当り三、〇〇〇円でなければ、話がまとまらないと申し入れ、この頃から非公式ではあるが買収価額は坪当り三、〇〇〇円ぐらいになる旨が所有者らに伝えられ、同年三月二五日ころ、上野市役所依那古出張所における上野市側担当者と各地区の区長との集会において、一律に買収価額を坪当り三、〇〇〇円とする旨の結論を出し、これを受けて奥瀬市長は同年四月九日ころ近鉄にこの価額を申し入れ近鉄もこれを了承し、同年五月二五日以降一斉に買収が行われたというのである(原判決理由第二項(三)(3)(シ)~(タ))。

二、右の事実認定は概ね高田、東、中、佐野、片山証人の各証言によっているのであるがこれら各証言は後に指摘するように、いずれもあいまいで不正確な部分が多く、重要な点で他の証拠とも矛盾しており、本件の最大の争点である買収価額の形成ならびに外部への伝達の時期というまことに微妙な問題について、到底正確な内容を有しているとは考えられない。これに対して、中森ならびに奥瀬証人は近鉄より買収を委託された上野市側の実務担当者および市長としてこの問題に全精力を傾注してきた者であって、しかも中森証人は第一審における証言当時もなお公務員の立場にあった者であるから、この二人の証言は最大限に重視されるべきものであることはいうまでもない。証言の内容をみても首尾一貫しておりまことに信用性の高いものである。

そして、この二人の証言によれば、右買収価額決定の経緯は、次の通りであって、右原判決の認定事実とは真向から矛盾するのである。

三、中森、奥瀬証言を中心として考えれば、本件買収価額決定の経緯は次のとおりである。

(一) 上野市は、近鉄より委託を受けて一括して本件ニュータウン用地の買収にあたることとなり、売買実例等の調査をするとともに昭和四四年末頃までに奥瀬市長、中森部長らが関係各地区をまわり、説明会をもち、地主の意向、希望等を聴取した。

その結果、上野市としては、二、五〇〇円程度なら地主の了解は得られると判断したが、近鉄には昭和四五年四月初め頃坪当り三、〇〇〇円の買収価額を申し入れ、これに対し近鉄側は昭和四五年四月九日これを了承したものであった。

この間、昭和四四年中にも市と近鉄との間では価額をめぐる接渉が持たれた模様であるが、一、五〇〇円ないし二、〇〇〇円ぐらいのところが取り沙汰されていたようであった。

そもそも、大規模な土地買収にあたっては、対象地区について所有者らが時価と考えている価額より相当程度高額の買収価額を設定しなければ、買収の実行が困難とされていることは土地業界の常識であり、本件においても、右の一、五〇〇円ないし、二、〇〇〇円ですら既に当時の時価を大きく上回るものであったことは容易に窺えるところである。

(二) この交渉経緯は、ことの性質上当然秘密裡になされ、部外者に事前にもらされたことはなかった。

したがって、一般地主らは、この経緯に関して価額の希望を述べ、ある程度の推測をすることはあっても、確実なところは知り難い状況にあった。

昭和四四年末の先行買収は坪当り一、三〇〇円の価額でおこなわれたが、これは当時の時価と目されており、このことは、当時は、まだ三、〇〇〇円という価額が煮詰った状況にはなかったことを如実に物語っている。

(三) 前述のとおり上野市と近鉄との間で、買収価額坪当り三、〇〇〇円の決定をみたのが昭和四五年四月九日のことであり、この事実を地元の所有者らが明確に知りえたのは、坪当り三、〇〇〇円の買収価額が新聞報道された(乙第一〇号証)昭和四五年五月八日のことである。

四、原判決は、この中森、奥瀬証言を真向から否定するのであるがその事実認定は証拠の取捨、撰択を誤り、まことに矛盾に満ちたものである。

(一) まず、原判決引用の第一審判決理由第二項に(三)(3)(ア)ないし(ツ)に即してその問題点を指摘しよう。

1、(エ)の事実のうち、売買実例として「本件土地の南西部の伊賀パブリックゴルフ場で坪当り三、〇〇〇円のものもあった」という部分

このような売買実例の存在を認めるに足りる証拠はない。もっとも、乙第二九号証によれば、昭和四四年二月二日近鉄は伊賀パブリックゴルフ場の増設に際し、公簿坪当り約五、〇〇〇円で用地を買収した形跡がある。

しかしながら、右の例は、次のとおりきわめて特殊な事情のもとになされた売買である(甲第一一号証の一、二、同第一二号証の一、二、同第一三、一四、一五号証、検甲第一、二号証)。

(1) 乙第二九号証の深井武二所有の上野市比土字 ケ谷四一三九番二保安林九九一m2の土地(以下、深井土地という)は、近鉄が伊賀パブリックゴルフ場の用地として昭和三五、六年ごろ周辺の土地を買収した際に、右深井に売り渡しを拒否されたため、近鉄が買収した土地のなかに島のごとく取り残されたわずかな面積の土地であった。

(2) 深井土地が買収できなかったため、右ゴルフ場は深井土地を避けてレイアウトされており、一一番ホールと一二番ホールの間に林として残っている。

この深井土地のために、一一番ホールのグリーンから一二番ホールのテイーグラウンドへ行くためには、市道を通っていくほかなく、深井土地はわずかな面積にもかかわらずまさに右ゴルフ場のガン的存在となっていた。

(3) そこで、近鉄は右ゴルフ場の将来の設営の観点から、是非とも深井土地を取得する必要があり、深井武二と交渉の結果、深井の言値である一五〇万円(公簿坪当り五〇〇〇円)という破格の値段でやむなく買受けたものである。

右の次第で、深井土地の公簿坪当り五〇〇〇円という売買価額は、まさにきわめて特殊な事情のもとに形成された価額であり、売買当時の周辺土地の時価を示すものではない。

2、(オ)の事実のうち、近鉄不動産の専務取締役高田祐らが昭和四四年八月二六日上野市を訪れた際「上野市の側では、平均して坪当り三、四千円という希望であるらしいという程度の話が高田専務の耳に入っており」、「視察後の面談でも、上野市側は、坪当り三、四千円ぐらいだったらまとめられるかもしれない旨を話した」という部分

中森、奥瀬証人ともにこのような事実はないと証言しているにもかかわらず、証言全体として不正確な点の多くしかも記憶ちがいと思われる(近鉄の実務担当者たる山本証人すら市から三、〇〇〇円の価額呈示があったのは昭和四五年二月頃と述べている)高田証人の証言のみ採用している。中森、奥瀬証言を採用しないというには、十分にその理由を示すべきである。

3、(ケ)の事実

土地ブローカーが上野市南部の土地を坪当り二、〇〇〇円ないし三、〇〇〇円で買っていた事実があるかも知れないが具体的にどのような土地であるか不明であり、土地の個性を抜いて上野市南部の土地が一般的にそのような値をつけていたと考えることはできない。現に、道路に面する等立地条件がよくしかも手ごろな面積である本件土地のうち原判決別表(一)番号12ないし19の土地は、上告人が昭和四一年五月に坪当り二、七八〇円で取得している。

4、(コ)の事実のうち、昭和四四年一一月五日に上野市役所依那古連絡所で行なわれた説明会の席上、上野市側から坪当り一、五〇〇円程度ではどうかという打診があったのに対し、「地主、住民側からは、それでは安すぎて到底買収に応じられない、せめて坪当り三、〇〇〇円程度でなければ難しいという返答があった」という部分

中森証人は、希望価額で一番高いのは、市部の坪二、五〇〇円であったと証言しており、奥瀬証人の証言も同趣旨である。原判決は、中証人の証言および乙第二二号証(中からの聴取書)のみを採用して、この事実を認めているようであるが、中森、奥瀬証言を採用しないというには、十分にその理由を示すべきである。

なお、昭和四四年一一月七日の神戸地区の説明会で、東健治郎区長が中森部長に坪当り三、〇〇〇円でないと話をまとめるのは難しいと言ったが、これは中森部長が酒を注ぎに行ったときの非公式な話で、正式の申し入れではない。

5、(シ)の事実

奥瀬市長ら上野市側担当者に徐々に近鉄への提示価額が形成されていったとすれば、それは一律坪当り、二、五〇〇円である。中森証人、奥瀬証人のこの点に関する証言内容は一致しており、十分に信用のできるものである。

右の両証人の証言にあるように、上野市首脳は、価額の点は極秘としており、「この額は、正式に発表されてはいなかったものの、関係者の間に広まって行った」というようなことは断じてなかった。このことは、昭和四四年末に行なわれた先行買収の値段が坪一、三〇〇円であり、これが当時の時価と考えられていたこと、中森部長は、この価額でもこれ以上で買収してもらえるという自信はなかったと証言していることからも明らかである。

また、この価額は当時関係者の間で最大の関心事であったはずであり、もし、三、〇〇〇円の価額が原判決のいうように昭和四四年一二月から翌年一、二月頃にかけて「関係者の間に広まっていった」のが事実とすれば、その頃の新聞やその他の文書には必ずその明確な痕跡が残っているはずである。そして、被上告人がその強大な権力を背景にこれを捜して見つけられないはずがないのである。

しかるに被上告人はついにこれをなし得なかったのであり、原判決がそれにもかかわらず右のような認定をなしたことは、経験則からみても到底肯けるところではない。

さらに、「上野市長としても地主の利益を考えるとこの額にして欲しいと考えた」との認定は近鉄に対する価額申し入れをした昭和四五年四月九日の直前ならともかく、それ以前の認識としては、当の本人たる奥瀬証人の否定するところであり、中森証人も同様である。原判決は一体どのような証拠判断により右のような認定にいったのか不可解としかいいようがない。

6、(ス)の事実

このような事実を認めるに足りる証拠はない。前述のとおり、上野市首脳は、坪当り二、五〇〇円なら地元は承知すると考えていたのである。

7、(セ)の事実のうち、「このころから、非公式ではあるが買収価額は坪当り、三、〇〇〇円ぐらいになる旨が所有者らに伝えられた」という部分

このような事実を認めるに足りる証拠はない。上野市首脳は、前述のとおり価額を極秘にしており、このようなことがありうるわけはない。

なを、中森部長が、山本開発用地部長に対し、「地元では坪当り三、〇〇〇円から四、〇〇〇円は欲しいという話がある」といったような事実はない。

8、(ツ)の事実

山本証人が、本件土地がベストということはいえない旨の証言をしているように、利用方法、面積などの要因を抜いて、本件土地開発区域内の土地の中では優良な土地の方に属していたとはいえない。

(二) 原判決の事実認定は、先にも触れたように、概ね、高田、東、中、佐野、片山証人の各証言によっているのであるが、これらの証言は、記憶ちがいも多く、中森、奥瀬証言との信用性は比ぶべくもない。

以下順次指摘する。

1、高田証言のなかには、昭和四四年八月頃にすでに市長らから坪当り三~四、〇〇〇円の話しを聞いたとの部分があるが、これは前記のとおり山本証言とも矛盾するし、昭和四四年末頃に行われた先行買収の価額が一、〇〇〇円そこそこであったことに比してもあまりにかけ離れた額であり高田証人の記憶ちがいであることは明白である。

2 東証言によれば、三、〇〇〇円の価額は昭和四四年中に決って同証人はそれを知っており、昭和四四年暮にはこの価額が議会で報告され、かつ同証人はこれらの情報を御木道正に伝えていたとなっている。

しかし、甲第三号証の一、二や奥瀬証言によれば、右のような事実が一切なかったことは明白であり、同証人の証言は全く信用できない。

のみならず、同証人は上告人に対して反感を持っていたと考えられるから(甲第二号証の一、二)、その信ぴょう性は極めて乏しい。また、右東義一は、本件ニュータウン計画の不動産売買に介入することによって不当な利益を得ようと企んでいた(甲第二号証の一、二参照)ものであり、各種の思惑から御木道正が退陣中(昭和四四年七月頃より同四五年一月一五日)はもとより、その復帰後も、知り得たすべての情報を忠実に御木道正に伝えていたとは到底信じ難い。なぜなら、このような情報をその都度御木道正に伝えたとすれば、東義一に仲介を依頼することなく直接買主と交渉することともなり、その結果、自己が仲介による謝礼を得る機会を失することになるからである。

3、証人中一三は昭和四四年一一月中に三、〇〇〇円が決ったといううわさを聞いた旨証言しているが、それが昭和四四年一一月頃であったという点については全く根拠がない。

同人の日記の記載を見ても、価額が出てくるのは昭和四五年四月二二日が最初(乙第二一号証の四)のようであるし、それ以前の記載内容を素直に見ると、昭和四四年一一月一八日の欄に「未だハッキリした事も判らないし、具体的な意思表示もない然し一般の空気は開発に協力的である様だ、問題は価格の点になり想だ」とあり、具体的な価額が煮詰っている状況とは到底考えられない。

昭和四四年末の先行買収の価額が一、〇〇〇円そこそこというのも、当時はまだ三、〇〇〇円という価額が煮詰った状況ではなかったことを如実に示しているといえよう。

むしろこの日記(乙第二〇、二一号証)を通覧すると、昭和四五年四月以前は、価額については各種憶測はあっても確実なものがないため、具体的に記載できない状況にあったことを示すものではなかろうか。

4、和田証言も昭和四四年末より四五年初に三、〇〇〇円が決ったと述べるが、これとてその微妙な時期的な記憶が正確であるとの保証は全く存在しない。むしろ、同証言はこの三、〇〇〇円は容易に決定せず難行したことを示しており、むしろ、正式決定前は予断を許さない状況であったことを示しているのである。

5、片山完証人は、昭和四五年一月に開かれた下神戸の初集会(これは地区の大字毎にその地域の有力者によって例年開催されるものという)において、上野市の中森部長が出席し、買収価額三、〇〇〇円を発表して協力を要請した旨、証言した。

しかしながらその証言内容はまことに唐突で、不合理な点を多く含んでいるうえに、本件の他の証拠とも矛盾するので、到底、措信できない。

以下、これを順次指摘する。

(1) 本件買収価額は再三述べたように上野市側としては、昭和四五年三月末頃の時点でもなお二、五〇〇円とするか、三、〇〇〇円とするか迷っていたのであり、四月九日に奥瀬市長が近鉄佐伯社長に三、〇〇〇円の申し入れをなした折にも、佐伯社長はなお二、九五〇円ではどうかなどと発言していたくらいである。

近鉄関係者の証言でも、市側から三、〇〇〇円の申し入れを受けた時期については、昭和四五年二月頃(山本証言)などとの証言もあるが、いずれにせよ近鉄が三、〇〇〇円を了承したのは同年四、五月頃と述べているのであり、近鉄側の正式回答もないうちに市の責任者がその価額を公表するようなことは常識では考えられない。(市の幹部が下神戸の初集会で発表したということは、他の地区でも同様であったはずであり、その情報は完全に公表されたに等しい)

中森部長、奥瀬市長は市の責任者として直接本件価額交渉に関与してきた人物であって、その間の事情にもっとも詳しく、かつ本訴において敢えて偽証しなければならないような必要は全くない。

もし、片山証人のいうように同人らが昭和四五年一月に三、〇〇〇円の価額を公表していたというのなら、価額決定過程に関する中森証言の具体的詳細な証言は殆どが偽証となってしまうであろう。

(2) 次に片山証人は本件について深くかかわりあったので一〇年以上前のことであっても、特別な記憶換起の要もなく覚えていた旨、述べている。

しかし、その証言内容はまことに不正確で、一〇年間の歳月による記憶の混乱がまことに甚しい。

例えば、自分の契約が四月二五日であったとはいいはるのも他の証拠(中森証言、乙第一〇号証)と対比すれば、五月二五日であったことが明白であるし、先行買収の価額も一、六〇〇円や二、〇〇〇円というのが、実は一、三〇〇円(中森証言)である。

更に、昭和四三年一二月末頃に市より協力要請の文書が来て、それ以来価額についての意見聴取などの手続やその他何の連絡や説明もないまま、いきなり昭和四五年一月の価額発表となったとの点も不自然きわまりない。しかも、この価額発表につき住民側からは格別の要求もなく、ただ公害等について厳しい意見が出ただけであったとの点も理解しがたい。

片山証言のうち、昭和四五年一月の初集会に中森部長らが出席して本件開発に協力を求めたとの点、およびこれに対して地元から公害に関し、厳しい意見が出たことはおそらく事実であろう。

しかし、三、〇〇〇円の価額については何回かの説明会や意見聴取の機会等を経て、もっと後に買収の直前に正式発表されたものを時間の経過による記憶の混乱から右初集会の時と述べているにすぎないのが片山証言の正しい評価であろう。

(三) 右のように、右各証人は、いずれも本件買収価額の決定の微妙な時期については、本訴において到底正確な証言をなしうる立場にはないのであり、中森、奥瀬証言をさしおいて右各証人の証言を採用した事実認定は、証拠の軽重をとりちがえるところ甚しいものがあるといわざるを得ない。

のみならず、これら証拠判断について留意すべきことは、いずれも被上告人が事前に調査して供述調書まがいの書面を作成しているところである。本件の如き微妙な時点に関する記憶は、特段のことがない限り通常は不正確なものであり、反対尋問の場にさらされることなく国税庁の調査官に質問されれば、とかく迎合的な方向で供述がなされるのは、むしろ必然的な成行きである。

本件は、被上告人が「公知」であるとまで主張し、その強大な調査機構を使って調査したにもかかわらず、本件三、〇〇〇円の価額が本件取引以前に一般人に知れていたという確実な証拠は右不正確な記憶以外何一つ提出し得なかった。

新聞記事にしても、それが「公知」であるならば、当該何度も報道されているはずなのにそれも全くないのである(この価額の点について、被上告人が提出しえたのは昭和四五年五月八日付の乙第一〇号証のみである)。

これらの事実は、結局、買収価額がいくらになるのかの点が全く莫然としていたことを示すものに外ならないのである。

五(一) 本件土地の価額は鑑定によれば、昭和四三年八月二〇日時点において平方米当り三二〇円(坪当り一、〇五六円、甲第七号証)、昭和四五年三月二〇日時点においては平方米当り同四三〇円(坪当り一、四一九円、甲第八号証)であった。

原判決は、この鑑定書について、これは、上野市南部ニュータウン開発計画が既に公表されていたにもかかわらず、昭和四五年三月二〇日の時点では都市開発の計画構想は公表されていなかったことを前提としており、誤った前提の下でされたものであって採用できないとしている。

しかし、同鑑定書は、上野市南部ニュータウン開発計画が既に公表されていたか否かについては全く触れておらず、ただ、当時においては、計画構想は公表されていない、と述べているのである。同鑑定書にもあるとおり、この計画構想は、昭和四八年一月一五日に公表されたもので、計画地域内の地区割り等もなされているものである。原判決は、このような計画構想の公表と上野市南部ニュータウン開発計画の公表とを混同しているものであって、同鑑定書に対する非難は軽卒で的外れである。

(二) もちろん、本件ニュータウン計画については昭和四四年末頃市長が各地区をまわって説明会等を開いていたのであるから、その価額についてある程度の希望、期待、推測等がなされていたことは事実である。

しかし、前記和田証言で明らかなように、この三、〇〇〇円の価額は相当難行して決ったものであり、市側の担当者中森、奥瀬証言によっても申入価額はその直前まで二、五〇〇円の可能性も存したようであり、市の内部でも早くから三、〇〇〇円の申入価額が決っていたわけではない。

しかも、これらの経緯は決して公表されていたわけではないのであり、上告人ら土地所有者が、正式価額の決定、公表以前である本件取引時点において、この価額が、三〇〇〇円に決ることにつき、確実な情報を得られるはずがなく、現に知らなかったのである。

たしかに、一部希望価額としては三、〇〇〇円というのも出ていたようではある(被上告人が本訴で立証し得たのはここまでにすぎない)が、そのことから直ちに価額が三、〇〇〇円になるものでないことはいうまでもない。

昭和四五年一月一九日、藤井岩太郎が本件土地の近辺にある上野市上林字山田二一三四番山村二二九七平方メートルの土地を公簿坪当り一、五一三円で学校法人日生学園に売却している事実は、その時三、〇〇〇円の価額が全く予想もつかないものであったことを如実に示しているのである。

(三) 以上の次第であって、本件取引日である昭和四五年三月一九日の時点は、市の方で坪当り二、五〇〇円なら地元の了解はえられるとの感触を持ちつつも近鉄に対し坪当り三、〇〇〇円の申し入れをなす前であって、地元の所有者らとしては確実なことは知りえず、期待と不安を持ちつつ成行きを見守っている状況にあった。

したがって、その当時、坪当り三、〇〇〇円の時価が形成されていたとは到底いえず、ましてや上告人がそれを知っていたと認めることは全くできないのである。

第三、上告人の認識について

一、本件取引は、上告人およびその関連会社の赤字を消すために会計担当者である植村恒吉が帳簿上の操作でなしたものであり、そのうしろめたさ故に第一の取引の日時を極めて幼稚な方法で仮装しようとした。論理的には三、〇〇〇円の認識とこの仮装との間には何の関係もない。

上告人担当者の認識によれば、附近に一、一〇〇円程度の実例があったので、その程度と考えていたというのであり、かつまた坪八五七円で売ったものをまた直ちにこれを坪一、一一八円で転売しているのであるから、この差額について低額譲渡といわれるおそれがあり、この点のうしろめたさから、取引の日時を仮装したにすぎないのである。

上告人関係者は、現地職員は別として本件売買に関与した者は本件ニュータウン計画については、当時全く知らなかった。

本件関係者たる吉重丈夫にしても植村恒吉にしても御木正道にしても、平素は富田林で執務し上告人以外の数多くの関連会社の仕事もしていたのであり、かつまた当時はトップ交代の混乱もあって、この事実を知らなかったということは十分あり得る状態であった。

そして本件土地売買はこの時点ではミキグループ内での単に帳簿上での操作にすぎないのであるから、十分な調査もせず、植村恒吉一人の判断でなされたのである。

二、原判決は、最終的にミキグループ外の転売先を予定しないで、単にミキグループ内の企業の赤字を経理上減少させるために帳簿操作をしたというのは不合理であるとする。これは、裏がえせば、具体的な近鉄という転売先があったからこそミキグループ内で帳簿操作をして赤字を減少させたのであろう、ということになろう。

しかし、当時の情勢は、その後の土地ブームの時代ほどではないにしても、次第に土地の値上がりのカーブが大きくなりつつあったのであり、具体的な第三者の売却先がなくとも、株式会社フードサプライにおいて本件土地を適当な期間抱いておけば、時間の経過とともに土地が値上がりし、そのうちに相当な高値を出してくれる適当な買主が見つかることが期待できたのであって、植村もまさにそのように考えて操作を行ったのである。

更に原判決は、そのような操作でグループ内の赤字を減少させたとしても、経理に通じたものが見ればすぐに分かる幼稚な操作であり、このような操作には大した意味があるとは思われないという。

しかし、いかに幼稚な操作とはいえグループ内の赤字額が帳簿上大幅に減少することは、経営者ならびに会計担当者にとっては大変なメリットであり、十分操作に価することなのである。

以上の次第であって、本件譲渡の時期である昭和四五年三月一九日の時点においては、いまだ近鉄の買収価額が坪当り三、〇〇〇円と決していたわけではなく、またその額に決定するとの確実な情報が広く知れわたっていたとの事実もないので、当時の時価が坪当り三、〇〇〇円であったとすることはできない。ましてや、上告人がそのような認識を有していなかったこともいうまでもない。

よって、原判決の事実認定には経験則に違背する重大な誤りがあり、この誤りが結論に影響を及ぼすことが明白であるから、原判決は破毀を免れない。

以上

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